忍者ブログ

和訳でみる古典   作成中

古文、漢文を日本語に和訳します!!

『建札門院右京大夫集』

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

『建札門院右京大夫集』

本文

通宗の宰相中将の、つねにまゐりて、女官など尋ぬるも、はるかに、えしもふとまゐらず。つねに「女房七見参せまほしき、いかがすべき」といはれしかば、この御簾のまへにて、うちしはぶ

かせたまはぱ、聞きつけむずるよし申せぱ、 「まことしからず」といはるれぱ、「ただここもとにたちさらで、夜昼さぶらふぞ」といひてのち、 「露もまだひぬほどにまゐりて、たたれにけり」と聞けば、召次して、「いづくへも追ひつけ」とて、はしらかす。
荻の葉にあらぬ身なれば音もせで見るをも見ぬと思ふなるべし
久我へいかれにけるを、やがてたづねて、文はさしおきてかへりけるに、さぷらひして追はせけれど、 「あなかしこ、返しとるな」とをしへたれば、「鳥羽殿の南の門まで追ひけれど、茨、桝殻にかかりて薮ににげて、力車のありけるにまぎれぬる」といへぱ、 「よし」とてありしのち、 「さる文見ず」とあらがひ、また「まゐりたりしかど、人もなき御簾のうちは、しるかりしかぱ、立ちにき」といへぱ、また「はたらかで見しかど、あまり物さわがしくこそ立ちたまひにしか」、など言ひしろひつつ、五節のほどにもなりぬ。そののちも、このことをのみ言ひあらそふ人々あるに、豊の明かりの節会の夜、さえかへりたる有明けにまゐられたりしけしき、優なりしを、ほどなくはかなくなられにしあはれさ、あへなくて、その夜の夜明け、雲のけしきまで、形見なるよし、人々つねに申し出づるに、
思ひいづる心もげにぞつきはつるなごりとどむる有明けの月



通宗の宰相中将が、いつも参内して、女官などに取り次ぎを頼んでも、(私たちは居場所が)遠くて、すぐに出ていくこともできない。いつも(通宗は)「女房にお目にかかりたいが、どうしたらよいだろうか」とおっしゃったので、この御簾の前で、咳ばらいをなさいましたら、聞きつけましょうということを(私が)申すと、 「信じられません」と(通宗が)言われたので、 「全くこのあたりをたち離れないで、夜昼ひかえていますよ」と言ってから(後のこと)、 「露もまだかわかない早朝に(通宗が)参内し、(御簾の揃に)お立ちであった」と聞いたので、取り次ぎして、 「どこまでも追いかけなさい」と言って、(歌を持たせて)走らせた。
 荻の葉に(荻の葉は葉ずれの音がする)荻の葉でない我が身なので、音もさせないで(あなたを)見ていたのを見ていないとお思いになったのでしょう。
(通宗の邸のある)久我へお行きtなったのを、(取り次ぎの者は)すぐに探し当てて、手紙を(そこに)置いて帰ってきたところ、(通宗は)侍に(後を)追わせたが、 「決して返事を受け取るな」と(私が使いの者に)教えていたので、 「鳥羽殿の南の門まで追ってきましたが、茨や枳殻に引っかかりながら薮に逃げ込んで、荷車があった所に隠れました」と(使いが)言うので、 「よろしい」と(私が)言ったことがあった後で、 「そのような手紙は見ていません」と(通宗は)抗弁し、また「参内しましたが、だれもいない御簾の中が、はっきりわかりましたので、帰りました」とも言うので、(私は)更に「じっと動かないで見ていましたが、(あなたは)ひどく慌ただしくお帰りになりました」などと言い争っているうちに、五節のころになった。その後も、この件についてばかり言い争う人々がいたが、豊の明かりの節会の夜、(月の光も)さえわたっている夜明け時分に(通宗が)参内なさった様子は、優美であったが、間もなく亡くなられてしまった悲しさは、どうにもしようがなく、その夜の明け方、雲の様子まで、(通宗の)形見であるということを、人々がいつも口に出すにつけても、
 恩ひいづる=(通宗を)恩い出す(私の)心も本当に(悲しみに)尽きてしまいます。(亡き人の)恩い出をとどめている有明の月(を見ると)。
PR

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

リンク

P R